• [0]
  • もうすぐ春なのに秋日和

  • 投稿者:管理者
  • 投稿日:2010年 1月28日(木)21時09分22秒
 
 今日、小津安二郎監督の「秋日和」という、晩年のカラー作品を観ました。今週前半、NHKBSで三夜にわたり、深夜に放映したものをHD録画していたものです。既に観た方はいらっしゃると思いますが、第一夜の「晩春」第二夜の「麦秋」は、ともにモノクロームの秀作で、似たような、殺人事件も、愛憎劇も、おこらない、骨肉の争いや立身出世や栄枯盛衰に関係ない、僕の親世代の現代等身大映画です。(あくまでも、首都圏の話で、家のジジババのような田舎のお話では、ありませんが)大好きな昔の映画の一つです。この二作は、後日観るつもりです。
 小津監督の映画は、独特の畳に座った、日本人の目線を思わせる、固定ローアングルの淡々とした、行間を楽しむ、ホームドラマです。「面白みがナイ」と言ってしまえば、以上終わり、バッサリ斬られてしまいそうですが、そこに登場する人物の、気恥ずかしいまでに視線を外さない眼差しと、一言一言のハッキリとした台詞まわし。何か、現代人が忘れてしまった「なにか」を感じてしまいます。今までに何度も観ましたが、60年以上昔の映画なのに、単にノスタルジーとは違う、観るたびに、気持ちを新たにさせられる映画です。家族ってなんだろう。兄弟ってなんだろう。親子ってなんだろう。夫婦ってなんだろう。友達ってなんだろう。自分ってなんだろう。と、これまでの人生に思いを巡らせ、これからの人生を考える道標となると、僕は、感じました。
 夫に先立たれ未亡人(いい言葉がありません、ごめんなさい)と残された娘。そして、夫の大学時代からの悪友三人。娘の親友、夫の父親という、老若男女7人が出席する夫の七回忌からこの映画「秋日和」は、スタートします。そして、その残された一人娘が嫁いでいった夜、二人で暮していたアパートで一人静かに、寝巻き姿で、布団の上に座ったまま、物思いにふける夫に先立たれた妻のシーンで、この物語は、終ります。でもその横顔は、微笑んでいるようにさえ見えました。この映画を見終わって、僕に残された「その先」を革めて思う機会を与えてくれたんだな~と感じました。
 そこで気がついたことがあります。この三作品に描かれていること。特に、伴侶に先立たれ、数年たった残された者。その一見、立ち直ったかのような者にも、それなりの苦悩があるのだろうと。このホームページの管理人さん、GGNのリーダー(本人は、そう言うと今でも嫌がるのかどうか?)に個人的にメールした、現在の悩み、それは、自分の中ではかなり深い。他者には、大した事がなくても。悲嘆の最終段階(死の受容と新しい自分の発見)の「その先」の自分に焦点を置いた、ワーキングステージが別にあっていいんじゃないかと思い、今日もまた、別のスレッドを立ててしまいました。是非、同じような事を考えている方がいれば、ご参加ください。逆に、何かに励まされたことや教えられた事など。なんでもかまいません。

 <思いやりのあるコミュニティ宣言>
 teacup.掲示板は、皆様の権利を守りながら、思いやり、温かみのあるコミュニティづくりを応援します。
 いつもご協力いただきありがとうございます。

投稿者
題名
*内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
URL
sage

  • [6]
  • 愛妻物語

  • 投稿者:masaメール
  • 投稿日:2010年 4月17日(土)22時53分43秒
 
 今日夕食後に、八朔を食べながら、NHKBSで昼に観損なった”ゲゲゲの女房”を見終わって、チャンネルをそのままにぼ~と、ニュースを観ていたら『新藤兼人監督が新しい映画でメガホンを・・・』と言うアナウンサーの声に我に帰った。「えっ、まだ生きているんだ(失礼な)なに?それも何と、98歳で新作?」ビックらコイタ。
 こちとら、ヒヨッコの52歳にして、死に損なってヘコタレているのに。凄いエネルギーに唖然とした。なんでそんなに気になるかと言えば、歳のことばかりではない。一昨日、1951年の彼の39歳の時の初監督作品である”愛妻物語”を結婚記念日にちなんで、一人涙に咽びながらDVDで観させて貰ったからである。

 この進藤監督のことが妙に気になったので、早速PCを立ち上げて今”ウィキペディア”で調べてみた。1912年広島生まれ、14歳で一家離散。戦争体験やその前後の相当な下済み生活を経て件の作品で念願のメガホンを執ったそうだ。ここでその映画の内容を細かく言う訳にはいかないが、彼本人の下済み時代の実話を元にした、自伝的映画だそうだ。僕たち伴侶、特に題名通りの夫目線の映画である。ある意味女性には不評かもしれない。何せ戦後間もない60年前の映画である。しかし、僕には自分とWらせてグッド・グリーフさせてもらえた。
 この作品は、当時まだ、30歳前後のシナリオライターの卵という、世間では認めて貰えない、監督自身がモデルの生活能力のない男が主人公である。その男は、妻の父親の反対を押し切って同棲して、夫の夢実現の為に、貧乏から体を壊して妻を死なせる。その夫の切なさと、貧乏だったけど幸せそうに見えるその妻の献身ぶりが描かれ、単純に僕の胸を打った。
 その後、進藤監督自信は、妻帯していたが、その映画で早世した妻を演じていた乙羽信子と愛人関係になったようだ。妻と死別後、監督66歳の時に乙羽と入籍し、82歳の時に3度目の伴侶、乙羽との死別を経験している。プライベートでも仕事でも”信念の人”そのもののようだ。イヤ~凄い人がいるもんだ。
 ちなみに、その乙羽信子の出身地が”ウィキペディア”で米子だとさっき知った。なんだか急に乙羽信子と進藤兼人にシンパシーを感じた。

 そんなことを考えていたら、メールにこんな写真がその米子から届いていた。今日撮れたての梨の白い花だろう。もう一つは、3月の末にメールの送り主に連れて行ってもらった、絶好の撮影スポットからの僕撮影の大山(米子)と出雲大社の大綱だ。
 結婚生活にも夫婦関係にも死別の事情においても、すべてケースが違うだろう。だから一概には言えないが、まだまだ若い僕らは、この先どのように生きていくのだろう。

  • [5]
  • 感謝の気持ち

  • 投稿者:masaメール
  • 投稿日:2010年 3月19日(金)22時23分53秒
 
 今日のニュースで岡山出身の新田佳浩選手が、バンクーバー・パラリンピックのノルディックのある種目で、金メダルを取ったことを知りました。先に行われたオリンピックで男子フィギアの高橋大輔選手の銀メダルにつづいての、郷土岡山出身選手のヒーローの誕生に喜びました。新勇者に各方面から称賛を贈られ誇りを感じて、ひとごとながらコチトラ同郷人は鼻高々(パラリンピックをやってた事など感心なく、おまけに新田選手のことなど、今日の今日までまったく知らなかった、ミーハーそのまんまなんですが)でした。
 その新田選手がまだ幼い頃、岡山の山間部に今も住まうの祖父が操作するコンバインに片腕をもぎ取られ、それ以来の障がい者生活なのだそうですが、努力と才能に恵まれ、ハンディを乗越えての快挙らしいのです。日本選手団の主将を務めるぐらいだから、素晴らしい若者なのでしょう。子供の頃からの受賞歴は、半端ではないようです。パラリンピックに臨むにあたって「是非金メダルをその祖父にこの手で掛けてあげたい」と言っていたそうです。(感涙)美談このうえない。半世紀以上生きているのにどのような賞とも縁のないどころか、今だパラサイトの同郷のダレカさんに爪の垢を煎じて飲ませたいものでした。

 そんなこととは関係なく、今回紹介したかったDVD映画「潜水士は青い蝶を見る」は、究極の障がい者が主人公の、実話を元にした映画です。だれもが羨む人生の絶頂から、突然脳梗塞を起して右目のマブタ以外は動かないという植物状態になり、絶望の中にいたが、いつしか現状の不自由の中でも記憶と想像という、自由に気づき・・・・というお話でした。観る方によっては、つまらないかもしれません。アクションも美しい恋愛もありません。が、僕にとっては、「絶望の中にも幸せがある」というメッセージの映画だったので感動しました。是非、皆さんに観てもらいたいと思いました。

 先日、ミコさんと電話をしていて、彼女がヒドク感動した話を聞かしてもらったので、合わせてココに書かせてもらいます。それは、このGGN掲示板にもそのサワリの部分が前に書かれていましたが、母親と小学校入学を控えた女児の聾唖の障がいを持つ親子の話です。手話の”通訳者”と3人でミコさんが運営するハウスにおいでになり、スタッフを交えて5人で、今後の利用について話し合っていた時ことだそうです。自分が同じ障がいで苦労した経験を、娘にさせたくないがうえの母親の俯瞰した、経済的理由であろう質素だが、卑屈にならない、燐とした美しい態度と、こちらも質素な身なりだが、キラキラした綺麗な目で、話している相手から一時も目を放さない、耳が不自由な分、目が耳となってるとしか思えない、いまだ7歳にも満たない女児。手話とアイコンタクトで交わされる3人の無言の真剣な会話。どれも新鮮で、ミコさんとスタッフは女児と母親の態度に魅了されたようです。健常であるがゆえ、自分たちの不明を恥じる気持ちになったのでしょう。わかる気がします。

 この3つのお話の共通点は、障がいという運命を受け入れ、どんな中にも幸せはあるんだと気がついた”ヒト達”ということになるのではないでしょうか。なんだかエールを贈られた気になります。感謝の気持ちが芽生えてくる気がします。ありがとうございました。

おしまい

  • [4]
  • もうすぐ春のお彼岸ですね

  • 投稿者:masaメール
  • 投稿日:2010年 3月17日(水)22時14分35秒
 
 僕の妻は、約5年半前に膵臓ガン原発の肝臓ガンで50歳の若さで亡くなりました。病気がわかった時には、時既に遅く。余命5ヶ月を医師から僕と義姉は、一緒に聞く事になりました。妻は、その場にはいませんでした。そのほぼ1時間前に同じ医師からその妻は一緒にガン告知を聞きました。「自分の患者で現在仕事をしながら抗ガン剤治療を受けている患者さんもいます」と励まされ、抗ガン剤治療の承諾をして病室へ戻りました。その後、僕と姉は、肝心の事をどう聞くか?を、お互いのココロのうちを目配せして聞きました。そのことに妻は感づいたのか「二人で聞いてきて」と、僕たちに言ってベットに寝てしまいました。僕たちは、再度医師に会い、希望を失う事になりました。この辺のことは、妻への手紙として別に書くつもりです。
 その後、いろいろな事をしましたが、努力の甲斐なく、平成17年8月25日午後7時50分に息を引取りました。最後は安らかな眠りでした。ガンが分かった3月25日から、きっちり5ヶ月。几帳面で素直な正確だった妻らしい最後でした。5ヶ月のうち延べ2ヶ月ぐらいは、妻の実家で過し、最後はその実家のある町の大きめの病院でした。
 その日の朝、午前5時ぐらいだったか、横浜の自宅マンションで寝ていた僕は、ベッドの上から玄関の三和土に、白装束の妻らしき女性が黙って立っているのを、夢のようでもあり、現実のようでもあり、とにかく見る事で目を覚ましました。同時にイヤな予感を感じました。その日が横浜で受けるガン治療の日であり、昨日その病院に持っていくはずのMRI画像が青森から届いたばかりである事を思い、その思いが僕の夢見の悪さの原因になったか、その治療を果たせぬ妻の思いの果てが、霊的な所業として現れたのか、どちらかなのだろうと自分に納得し、再度眠りに僕は落ちたのです。
 それから、3時間あまり経った、8時半頃、一本の電話が自宅電話にかかってきました。またイヤな予感がしました。電話を取ると、実家を継いでいる長男の方の義弟からの電話でした「今日のようだから帰ってきた方がイイよ」という内容でした。直ぐ、航空便を予約しました。その時点で台風との競争である事を知らされました。それから、仕事の段取りを着けて、羽田まで行き、なんとか青森便に飛び乗りました。青森空港に迎えにきてくれていたのは、東京から先に着いていた次男の方の弟でした。その彼の運転する車で病院に着いたのは6時半頃でした。病室のベットにたどり着くと、酸素マスクを付けられ苦しそうな妻と、その周りを取り巻くように、彼女の母、叔母、姉、弟、甥といういつもの彼女の一番好きな人が心配な表情を浮かべて、彼女と計器と僕の座る腰掛けをを見比べながら、僕の到着を迎えてくれました。
 それから、計器と彼女の発する苦しそうな息継ぎを見比べながら、無言の時が流れました。義姉はその時、自宅まで用事があり帰りました。その直ぐ後に「カッ」という最後の声を発して、妻は旅立っていきました。僕の到着をシンドイなか待っていてくれたのでしょう。僕は、苦しくなくなったのであろう、妻の安らかな顔を見て、ココロの重荷がホンの少しだけ軽くなるのを感じました。義姉は、最後の最後に立ち合えなかった事にどう自分に決着を付けたのか、知る寄しもありませんが病院に帰ってきて、妹の亡骸にすがって大きな声で泣きました。その後自宅に帰って妻を布団に寝かせ、一通りの支度を整えて明日の通夜を待つだけとなった深夜、その間、ずっと泣いていた義姉は、家族の反対を押し切って自分の車で出て行き、朝早くに黙って帰ってきました。

 前置きが長くなってしまいましたが、その思いがあって、この話になるような気がするのでお許しください。その義姉は、青森の黒石という所にある実家で、妻の母と、ガソリンスタンド経営の跡継ぎで長男の弟夫婦と、自分の息子である妻の甥とで、一家5人の暮らしをしていました。義父はその時点で特老に入所していました。妹である妻の介護を弘前での雑貨屋経営の仕事の合間に、義母と交代でしてくれていました。その義姉が妹を見送ってから、数ヶ月して青森にきていた美輪明宏のコンサートに行き、この青森県のむつ市に「木村藤子」さんという日本で三人居る本物の霊能者の一人のことを紹介したとの事でした。
 その話を聞いた直後に義姉は、イテモタッテモいられず、知り合いの伝手でアポを取り付けたそうです。自分で車を運転して、同じ県内といえ西から北東へ3時間以上かけて移動し、全国区になりそうな時期だったため、待った揚げ句にドタキャンになり、また3時間以上かけて戻ると言う試練にあったそうです。その時、木村さんは、「今日は、精根尽き果て霊能力が落ちているので数週間してもう一度来てください」と言ったそうです。その言葉を信じて、義姉は再度チャレンジして今度は、会えたそうです。
 順番を待って、神様の居る神殿のような処に座るなり、来意の目的を尋ねられ、義姉は、今妹はどうしているか?などを聞いたようです。「現在成仏して、あの世で丸々と太っていますよ」「ほら、あなたの横に、あなたにソックリノ妹さんがそこに座っていますよ」というようなことを言われたそうです。俄には信じられなかった義姉は不審な表情をしたようです。それを見て取った彼女は、義姉しか知らない事を言い当てて信頼を得たそうです。
 それは、お盆休暇で彼女が入院している病室に僕が、一週間泊まり込んだ時の事です。食べ物のほとんど摂れなくなっていた妻は、岡山からお見舞いに送った白桃を義姉に剥いてもらって、僕と一緒に食べました。嚥下すら出来なくなっていた妻は、僕に悟られないように、のどを通らなかった白桃の繊維質の塊をそっとティッシュに包んで手渡したそうです。そのことを木村さんは、義姉に事細かに伝えたそうです。
 その他には、僕の身体の事を心配しているなどを聞いただけですが、義姉は他に自分の確かめたい事などを妹に代わって、木村さんに聞いたのでしょうが、僕には関係のない事です。

 なぜ、亡くなった自分の愛する人に会いたいのか?なんで話したいのか?この長ったらしい文章を書きながら思った事があります。それは、その時に言えなかった事を言いたいから。言ってもらいたいからではないでしょうか。
 僕も義姉もあの日に医師から、愛する妻であり、愛する妹である彼女の余命を宣告され、その重荷を背負って、そのことに気づいているであろう彼女の無念さと不安を互いに隠しながら、決められてしまったゴールを目指さなければならなかったモノ同士の慰労会のような気がします。分かり易く言えば、「最後には」とか「どうせ」とか「もういんじゃない」とか「いろいろ世話になったね」とか「ありがとう」などと決して言えなかった、言ってしまったら、その時点で全てのモノが崩れ去ってしまうような気持ち。そんなモノ同士の「感謝の会」だったのだと気づかされました。

 その意味で本物の「霊能者」は、あの世の人とこの世の人を繋いでくれるイイ通訳者なのだと思いました。春のお彼岸がやって来ます。花より団子の好きだった妻のお墓に、ビールとつまみを持って行こうと思いました。ちなみに、妻は、生まれ故郷の青森で亡くなり、実家で葬式を出させてもらい、東京で友人知人に送る会を開いてもらい、今、岡山で義理の祖父母と伴に墓にいます。50年の生涯でしたが、幸せだったのではないでしょうか。

ご静聴ありがとうございました。おしまい

  • [3]
  • 多生の縁に感謝

  • 投稿者:masa(管理者)メール
  • 投稿日:2010年 3月 6日(土)18時44分26秒
 
 先程書いたつづきを書かせてもらう。といっても映画には関係ない。僕の個人的な想いを例によってブツブツ掃出すだけだ。他人にはクドイダケの独り言だ。どこにでもある、しょうもないお話である。バトンを渡すものとして引き継ぐ者のいない、哀しい引き継ぎなのかもしれない。

 昨日の朝、起きたら老親が出かける支度をしながら「これからお墓の掃除に行ってくるケェ、ついでにジジババの二十三回忌のお願いもお寺さんにしてくるケェ。この五月の初めぐらいでエエか?」うん「前にジジババと文ちゃん(僕のカミさん)の法事を一緒にしょうてゆうたけど、さっきお父ちゃんとも相談したんじゃけど、もう子供(孫である僕の兄弟)だけでエエじゃろ~ゆうて。文ちゃんの七回忌は青森からも来られるじゃろ~ケェ、ジジババの法事と一緒にやるチュウ訳にもいかんケェ~、来年にしょうゆうて。な~それでえかろう」と、一応、長男であるが出戻議員のような僕に、わが家の官房長官である、件の老母は、役立たずの長男に相談というよりは、記者団の質問を許さない口調で、我が家の首相である父の代弁者として曰ったのである。(急にいつもの調子になる)

 僕の父親、老親の片割れ、この家の家長は元々次男である。訳あってジジババ(父親にとっての両親)の墓守をしている。父は、親とは幼少期に別れて祖父母(僕にとっては、曽祖父母)に、兵庫県の山中で他の兄弟達二人と共に育てられた。その頃、両親(僕にとっては、祖父母)は、生活のため岡山の兵庫県との県境の工場町(僕が生まれ育った以前の実家があるところであり、お墓のあるところ。今の実家のある町より過疎化の激しい田舎)に住んでいた。その後父は、小学校卒業と同時に、自分だけ一足先(太平洋戦争前夜ごろ)にその町の両親のところに行き同居した。その後すぐ相生の軍需工場で働かされ、空襲に遭い、終戦を迎える事となる。鉄道の線路を歩いてその町に帰ったようだ。その後その町の工場に勤め、オート三輪などの運転手をして両親と同居していた。そうこうしていて、つてがあってか公務員としての人生を歩む事になる。公務員と言っても小学校しか出ていないので、終生一運転手に過ぎないのだが、このお話に関係ない。そこで母親を娶り、それはそれは可愛い(当然まだヒゲ面でない)僕が産まれ、その5年後双子の弟達が産まれ、一家7人でつつがなく暮していた。(その一場面は、ブログに書いた。どうも売れない作家気取りでアル)

 話は多少前後するが、明治生まれの祖父母(無学の田舎者=悪く言っているのではない)は、夫婦そろって、その町の工場で一年中働き、長女と四男を産み育てながら借家に住んでいた。里に置いていた子供のうち、長男を墓守に残し、次男、三男を順に呼び寄せた。日本中がそうであったように、生まれ育った寒村を棄て、生活の向上を目指して、自らも昭和の隆盛期そのものの新天地での生活を送っていた祖父母一家である。

 念願の自宅を手に入れ、次男(父)が嫁(母)を貰って、三男が独立結婚し、長女が嫁に行き、孫(僕)が生まれ、四男が独立結婚し、父(僕にとっての曽祖父)を引取り父を看取る。また孫2人(僕の双子の弟)が生まれ、先程書いた一家7人の家族の落ち着いた暮らしがやっと祖父母に訪れる。この時、僕にとってのお爺ちゃんは、68才前後、8才違いのお婆ちゃんは、60才前後だったのである。だから僕の記憶に家長は父で主婦は共稼ぎの母だった。祖父母は、いつも家にいる当時の感覚では余生を送る人たちであり、可愛がってくれるジジババであった。

 その7人家族の一番最初の離脱者は、二十歳の僕だった。就職を期に家を出て下宿生活を始めた。つづいて、双子が二人一度に家を出ていった。一人は大学への進学で下食生活を始め、もう一人は就職してその会社の寮へと、それぞれに孫達は巣立っていったのだ。その時一家は、48才の父、46才の母、81才の祖父、73才の祖母の4人暮らしになった。一気に寂しくなったのか、それとも生意気な二人の高校生がいなくなって清々したのか。きっとその両方だったのだろう。ちょうど30年前である。

 その後、祖母は直腸ガンで入院。孫の僕が東京で結婚。その祖母は最後を自宅に戻り、父母が看取り昭和59年7月19日永眠。77才の生涯だった。おくり名は「観浄院寿香妙淳大姉」僕たちには、潔癖症でひょうきんだけどちょっぴり弱虫の喜怒哀楽のハッキリした、明るい性格のお婆ちゃんだった。その祖母と対照的に、無口で偏屈者で通っていた祖父は、よく祖母と喧嘩をしていた。その祖父が、祖母を亡くして、張合いをなくしたのか一年も経たずして脳溢血で倒れた、元来強靱な体力の持ち主の祖父は、母に世話されながら意識不明のまま長い入院をすることになる。仕事一筋で無口だったその祖父も、最後は肺炎を起し、入院先で息を引取った。昭和60年4月2日永眠。86才の生涯だった。おくり名は「観智院寿徳作應居士」僕たちにも無口で偏屈者に見えたが、案外心根の優しい、仕事一筋のお爺ちゃんだったのかもしれない。どちらも僕ら兄弟三人の大切なご先祖様である。

 その後、何年かして仲の良かった父の兄弟は、ボタンの掛け違いから仲たがいしたままである。お家騒動は何も資産家だけの話ではなく。市井の貧乏所帯にもやって来るようだ。残念だけど、この二十三回忌は、僕の代で跡継ぎの絶える父の家族だけで執り行う。祖父母にとって寂しいかぎりであろう。身内の拗れは何処も大変、どうにか取り繕えればと思うが、居候の身分では、なんともしがたい。力不足を恥じ入るのみである。

 ちなみに、今年の五月に母親の両親(僕にとっては、母方の祖父母)の法事が行われ、孫や曾孫まで出席して盛大に行われるらしい。二男三女の母親の兄弟は父の兄弟と違い仲が悪くないのだ。

 この先の事を思う。なにも言わない祖父譲りの無口な父親であるが、その当時の親と別れての生活が、我が子を思う気持ちを大きくしているように思うし、母親もそう分析している。だから、黙って息子二人が帰ってきたのを優しく迎えてくれているのであろう。感謝と同時に親と自分と兄弟の、近い将来のことを嫌でも考えさせられる。

 今、故郷のお墓には、先に逝った僕の妻が祖父母と眠っている。この三人に血縁はないのだ。しかし多生の縁があったに違いないと思う。先に逝ってしまった先達に感謝したい。ありがとう。ごめんね。

 この長ったらしいお話はオシマイ、もし最後まで付き合ってくれる人がいたら、感謝します。つまらない独り言を最後まで聞いてくれてありがとうございました。

  • [2]
  • A Mighty Heartを見終わって

  • 投稿者:masa(管理者)メール
  • 投稿日:2010年 3月 6日(土)10時14分57秒
 
 以前、Yoshiさんに奨められていた映画のDVDを昨日観たので感想を書いてみる事にする。と、言っても、映画そのものの印象ではなく、自分自身の想いである。

 主役演ずるアンジーが彼(ご主人)との子供と手を繋いでパリらしき街を歩くシーンでこの映画は終わっている。それまでの行方のわからぬ不安な重苦しい空気や、彼の死がわかってからの彼女の協力者の哀しみ、アンジーの絶望感、その両方を一緒に感じて、いたたまれなかったが、そのラストシーンに救われた。その二人の子、アダムは名付け親である実の父がこの世に残した、彼の魂の継承者である。彼は、その愛の絶対の存在である我が子を抱く事叶わず、無惨にこの世から葬られたが、彼は繋がったのである。なんだかホットした。実話を元にしたこの映画、映画としての評価に賛否両論あるのかもしれないが、希望が次に繋がるお話だったので、僕は評価した。

 この映画とは全くレベルの違う、比較するような話ではないが、僕には、彼とは違い子供がいない。どういう訳か我が家は、兄弟三人とも子宝に恵まれず、将来、両親が繋げた家系を絶やすことになる。別に取り立てた家系ではない、名もなく財産もない市井の家庭である。しかし、この年齢になってやっとわかったことがある。僕ら兄弟三人のうちの最後の一人がこの世を去った瞬間に、愛する父と母が築き上げたこの家系は絶えるのである。それがこの上なく申し訳ない。

 別段、珍しくもない、人類始まって以来無数にある、他人にとっては取り立てて言う程の物でもないのであろうが、本人たちにとっては深刻である。何度も言うが他人にとっては、取るに足らない。

 カミさんが先に逝った時も思ったことだが、カミさんが残して逝った物を受け継いであげられないんだと感じた。確かに、カネメの物ならいかようにもなろう、赤の他人だって欲しがるに決まっている。しかし、彼女の想いのこもった他人には何の価値もないものは、邪魔にこそなれゴミ以外の何者でもない訳だ。僕が生きているうちは、大事に出来ても、僕が死んでからはゴミにしかならない。これは、父母の場合も同じである。受け継ぐ物のいない家系の結末なのである。

 この話は、なにも唯物論で言っているのではない。ましてや宗教的な意味で言っているのでもない、単に人の想い、生きた証として、受け継いでいくという ing のお話である。

 子孫を残すことの出来なかった僕は、この先なにをどう残すんだろう。両親やカミさんのDNAや生きた証を次バトンに託せぬ責任の重さを、不甲斐なさを感じている。若いうちには感じることのなかったことだ。なんとかなるように思っていた。いや、何にも考えていなかったことがわかった。どうにもならないことがわかって来てやっと諦念という意味がわかった。いや、そんな大それたことなどわかる訳がない。このまま書いていたら延々と書きそうなので止めるが、この問題は大事なような気がする。だれになにをバトンするのか?。

  • [1]
  • 「父のパンツ子どものパンツ」を読んで

  • 投稿者:masaメール
  • 投稿日:2010年 2月18日(木)19時04分28秒
 
 あいもかわらず、このスレッドにも、だれも何も書いてくれない。しかたがないので、昨日読んだ本に励まされたことをブツブツ独り言みたいに書いてみる事にする。
 同居している認知症の父親の自宅介護をがきっかけで、ダウン症の障害児5才の長男と3才違いの健常児の次男を主夫となり育てた、多田 光さんという、僕より2才年上、先に逝った僕のカミさんと同い年で岡山在住の市井の人のエッセイ集を昨日読んだ。
 その著者は、家計は奥様が賄い、二人の男児と実父の世話を自分がする事にしたことで世間から遠ざかり、その孤独を埋める為に新聞に投稿するようになったそうだ。だから、主夫の目で見た、出会った人や出来事、その時々に感じた事など生活雑感を綴っている。2000年の5月から2009年の9月までの約10年間の新聞に投稿が掲載された記事を編集した「父のパンツ子どものパンツ」というエッセイ集だ。
 その中の「人間の幸せを気づかせるもの」という文章を読んでなんだか励まされたので、ここでご紹介したい。(原文を無断で借用することをお許しください)
 明治時代、いち早く岡山で孤児院を開いた石井十次を描く映画「石井のおとうさんありがとう」を見た。知的障害児であれ病弱児であれ、来る者拒まずと受け入れた彼の功績は大きい。今でいうノーマライゼーションの先駆け者である。
 監督山田火砂子さんの撮影エッセーを読んで、監督の長女も知的障害があることを知った。監督は「私の娘は計算する力がなく、従って欲というものを持っていない」と書いている。映画の中に、知的障害の八郎という子が登場するが、その描き方に関心し、なるほどと思った。
 私の長男もダウン症で、小学三年だがひとけたの足し算しかできない。しかし、山田監督の言葉に私は目の覚める思いがした。
 計算ができるから欲がでる。欲がでれば、いま以上に欲しくなる。それは果たして幸せなことなのだろうか? 障害児は人間の幸せとは何なのか、親に気づかせるために生まれてきたのではないだろうか。(2004.11.18.朝日新聞)という文章だ。
 問題や状況は人それぞれに全く違うが、人生の見方、捉え方という点では、どれも同じような心境だと思う。僕自身、伴侶を亡くし、転職し、挫折し、病気になって、「なんで自分ばっかり」という気になったが、周りの人々(友人・知人・親・兄弟)言ってしまえば、ソウルメイトとの出会いを通じて「人間なにが幸せなのか」やっと分かりかけてきた。この文章を読んで「やっぱりそうなんだ」と、励まされる思いがしたので、ここに書いてみた。今、僕の大切な人のご主人が亡くなる前に書き残された、「ちょうどいい、今が自分にちょうどいい」という良寛和尚の言葉と合わせて、この拙い、長ったらしい独り言を読んでくれたあなたにあえて聞こう。人それぞれ違うだろうが「あなたの幸せって、なんですか?」と、・・・・。


レンタル掲示板

スレッド一覧

  1. 亡き伴侶への手紙(106)(管理者)
  2. 会いたいです(0)(管理人)
  3. 作為のない?映像集(5)(管理者)
  4. 2010年夢中の足袋の入口(36)(管理者)
  5. 「あなたも、GGNオリジナルソングを創ってみない?(9)(管理者)
  6. もうすぐ春なのに秋日和(6)(管理者)
  7. 勇気を与えてくれた言葉 (6)(管理者)
  8. 謹賀新年2010(1)(管理者)
スレッド一覧(全8)  他のスレッドを探す  スレッド作成 掲示板に戻る

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成